コスプロノミコン〜コスプレイヤーとして更に上を目指す為の禁断の魔道書〜

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コスプロノミコン…レイヤー道の神髄、此処に極まり!

はじめに

本書は、レイヤー道をご一読頂き、その記載内容に納得、得心なされた方、参考になった、或いは、求める得るレイヤー像と近似であると思われた皆様向けのテキストになっております。
従いまして、レイヤー道をご覧頂き、違和感や疑念、方向性の違い等を感じた皆様には本書は不向きとなっていりますのでブラウザバックを推奨致します。

上記をご理解の上、本書を読み進めて下さい。
尚、本書に記載しております内容は、フィクションですので誤解なきよう宜しくお願い致します。


趣味のレイヤーなざらるプロのコスプレイヤーになる術が記された禁断の魔道書

コスプロノミコン原書写真 ロメオ・イ・フリエタでは、コスプレイヤーの神髄を究めるべく、コスプレ探索チームを結成、世界各地を遍く捜索して参りました。
長年の旅路に精根尽き果て、探求の断念を覚悟していた折、何と、舞い戻った千葉の地で謎の書物を発見致しました。
それが、コスプレの極意が記された魔道書『コスプロノミコンCospronomicon)』だったのです。

コスプレに纏わる秘密の極意が記されている事は、探索チームの誰もが疑わず、それを肌では感じてはいるものの、現代では忘れ去れた謎の言語で記されているが故、そこに記されている秘密の文書も記号も挿絵も不明、途方に暮れておりました。
しかし、偶然にもそこに居合わせた、落花生を頬張る弊社会長が魔書「コスプロノミコン」を目にし、読めるだの読めないだのと宣い、この禁断の魔法書の解読作業が開始されました。

コッペリオンのED曲歌詞がアラビア語である事を見抜いた会長により、原書に記された謎の言語をアラビア語に訳し、後、ギリシア語に訳し、ラテン語に訳し、面倒になって日本語訳を記す事となりました。
本書はあくまでも、コスプロノミコンの不完全な日本語版となります。
と申しますのも、原書はいずこかに消え去ってしまいました。現在、コスプロノミコン原書は手元に御座いません。
本書は不完全な日本語版ですので、奥伝迄は翻訳出来ておりませんが、それでも皆様へのお役立ては出来ますものと思われますので、是非、ご一読下さい。
もし、コスプロノミコン原書をお見掛け致しましたレイヤーの皆様は、弊社にご所属希望の旨、タレントご応募下さるか、弊社タレント登録へのご登録を済ませた上、原書の所在をお伝え下さい(尚、原書の行方が分からない方でもご応募、ご登録頂けます)。


コスプロノミコンご閲覧際のご注意事項

コスプロノミコン翻訳者アヘ顔ダブルファックユー念写近影 本書は必ず、レイヤー道をご覧頂き、そのコスプレに関します姿勢や在り方に近しい感性をお持ちの方のみ、読み進めて下さい。
レイヤー道をご覧頂いた上で不快な気分になられたり、ご自身の感性と相容れない様でしたら、本書をご覧頂くのはお止め下さい。
コスプレは趣味の世界ですので、考え方の相違や取り組み方、その姿勢、目的等、コスプレイヤーの皆様の数と同じだけ存在しておりますので、レイヤー道をご覧頂いた上で何か違うと感じられた皆様はブラウザバックをなされるか、そっ閉じ下さい。

本書は魔道書「コスプロノミコン」の不完全な日本語訳となっております。
従って、より正しい翻訳法が見付かりました場合、後日、修正・加筆する事が予想されます。
現時点でご覧頂いております文書が、全て正しいものとは限りませんので、予めご了承下さい。

上記をご理解の上、問題ない様でしたら、本書を読み進めてみて下さい。

本書では一部不適切な表現やお見苦しい内容を含む場合が御座います。
ご覧頂く事で気分を害される恐れも御座いますのでご注意下さい。
また、本書はジョーク要素が強い文書となっておりますので、誠に申し訳御座いませんが、本書に関しますご批判等の受付は致しておりませんのでご了承下さい。

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もっ先へ――《コスプレ》したくはないか、汝

コスプレとは コスプレを楽しむもの
コスプロとは コスプレの玄人として嗜むもの
コスプロノミコンは 今より上のコスプレイヤーを目指す手引書にして外道書

コスプレ魔導書『コスプロノミコン』序文第1節より抜粋――

当初、コスプレを始める切っ掛けは、好きなキャラに扮したい、やってみたい、イベントに参加したい、楽しそう、何となく興味があって、誘われた等、趣味特有のちょっとした興味や好奇心だった筈。この時、どのコスプレイヤーもキャラコスをしてみると云う行為(コスプレ)に満足し、特別深い思い入れや各々の考え方に相違は然してなく、互いにおいて意識する事は殆どなく、フレンドリーだ。
しかし、やがてコスプレに慣れ始めると、各々のレイヤーは感覚的に、感性として求めるものが異なってくる。
あるレイヤーはイベントと云うお祭りに参加して楽しむ事を求め、他のレイヤーはレイヤー仲間を求め、別なレイヤーは完成度の高い撮影を目指して高クオリティの写真を残す等、レイヤーとしての方向性に変化が顕れ、それがコスプレそのものにも影響を与える。
謂わば、コスプレをする目的、である。

コスプレの種別は様々だが、コスプレ自体をどの区分として取り扱っているかは、レイヤーによって異なる。
所謂、コスプレをどのようなアイコンとして考えているか。
非日常的なファッションの一分野として楽しむアイコン、キャラコスの元となる原作愛に基づく仲間意識や共有意識としてのアイコン、派手な発色や奇抜なデザイン等観衆や閲覧者を注目させるアイテムや術としてのアイコン、何等かのパフォーマンスにエッセンスやボリュームを加味する意味合いとしてのアイコン、コスプレそのものを趣味として共通認識させコミュニケーションの一端とみなすアイコン他、コスプレをどのアイコンとしているかセグメント化する事ができる。
このようなセグメント化されたアイコンが、コスプレの目的と直結し、コスプレの方向性や考え方、取り組み方に大きな違いをもたらす。
レイヤー歴を重ねると、このコスプレの目的において大きな隔たりが生じ、自身の立ち位置としてレイヤーの在り方におけるグループ化がなされ、グループの異なるレイヤーに対して、あれは違う、これは違う、あのレイヤーは駄目、このレイヤーも駄目と批判対象とする傾向が見られる。
しかし、コスプレは趣味。故に、誰がどのような目的で行っていても、とやかく云う筋合いはなく、云った処で虚しいだけ。
であればこそ、自身の目的を完遂する為に努力した方が余程、建設的で健康的と云える。

本書では、コスプレの目的を果たし、より楽しむ為の書である。
本書で取り扱うのは、上述のセグメントの中で、コスプレを直接的・間接的に用いた共有意識や仲間意識を図る術としたアイコンとして取り扱う者(コミュニケーションの発端を作り出す事を目的としたコスプレ、乃至はコミュニケーションを取り易くする為の目印としてのコスプレ等)は除外する。
コミュニケーション分野としてコスプレを行う場合、コスプレそのものの品質や完成度、キャラ選び等が一様化し、相対的に見た時、個性を失う。
本書は、モブ化するコスプレではなく、主役たり得るコスプレを目指す者の為に記されている。
勘違いされてはいけない。
もし、自分が違うと感じたのであれば、本書を読む時間は無駄となるので此処で、さよなら、だ。

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コスプレにおけるビジュアル論

『ビジュアルこそがコスプレの理』
ビジュアルは富であり絶対
ビジュアルに拘らぬのはコスプレに非ず

コスプレ魔導書『コスプロノミコン』第1章第2節2「視覚への訴えがレイヤーとしての資格」より抜粋――

コスプレは、何よりも先ず視覚に投げかける像である。
その像が、閲覧者や観衆他、第三者にどのような影響を与えるかを考える。

キャラコスの場合、元キャラのイメージを強く反映、投影し、これに傾倒してしまうと、コスプレをした時のトータルバランスを著しく欠く場合がある。
これは、元キャラへの思い入れが強過ぎる場合に陥りがちなミスであり、これに気付かない者は何年経ってもコスプレは上手くならず、ファンを得られない。

閲覧者や観衆、視聴者は、元キャラや原作を知らない場合がある。仮に知っていても、そのキャラコスを行うレイヤー程、詳しくない場合が殆どだ。
もし、コスプレを閲覧する全ての第三者がその元キャラを知らなかったと仮定した時、コスプレをどう見るか?
この場合、コスプレと云う像を見て、美しい/可愛い/綺麗/格好いい/印象的/幻想的/似合っている、等々トータル的な視覚から、その善し悪しを判断する事になる。
つまり、この時、キャラコスとしての忠実性や再現度云々の情報は閲覧者の判断基準とはならず、見た目の善し悪しに大きく左右される。

キャラコスと職業コスは全く異なるのだが、しかし、閲覧者に知識や情報を強要するのは見当違いである事から、キャラコスだろうと職業コスだろうと非日常的な衣装であろうと私服であろうと、第三者の判断を仰ぐ場合、或いは、その反応を求める場合には、ビジュアル的な善し悪しが肝要となり、カテゴリは違うものの見せ方は同じとなる。
要は、像としてのクオリティが高ければ、元キャラや原作に造詣の浅い者であっても、その像を評価する事となる。
つまり、コスプレはビジュアルが重要である、と云い切る事が出来るのだ。

仮に、コスプレの像を写真とした時、その写真上でのビジュアルが如何にインパクトを持つかを先に考え、トータルとしての、コスプレ全体としての印象を優先し、誂える。
原作への忠実性、再現度、ディテールへの拘りは、その後となる。
戸口を大きくしてやらなければ入って来る者が少ないのと同様、まず、全体像としてのビジュアルを重視し、これで惹き付けた後、細部に至る拘りを見せられれば、感心させる事が出来る。
いきなり、細かな箇所を見る者はいない。いるとすれば、それは同じくレイヤーか原作ファンであり、その数は、それを知らない者よりも圧倒的に少ないと理解する。

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コスプレ撮影による写真選び――サムネイル編

たかがサムネと侮るものは 挑む以前に破れている
サムネで勝たなければ 本番はない
小さなことからコツコツと

コスプレ魔導書『コスプロノミコン』第2章第1節4「親指姫、斯く語りき」より抜粋――

コスプレ写真でのサムネイル選び方解説 手の込んだ撮影による大きなサイズの写真やROMのジャケットを飾る写真、アイキャッチとなる写真には拘りを持つレイヤーは沢山いる。
しかし、サムネイルに迄気を回す者が如何に少ない事か!

イベントで販売するROM作品と異なり、ネットでは写真の殆どがサムネイルとして表示され、それをクリックされなければ、元サイズや大きなサイズの写真を見てはくれない。
幾ら手の込んだ撮影をしても、どれ程良い作品であっても、見てもらえなければ、誰もいいとは云ってくれない。
先ず、見て貰わなければならないのだ。

アルバムやフォト日記の場合、サムネイルは元写真の比率をそのままに、自動的にサイズがサムネ用に変更される。
自分のサイトやブログであれば、元サイズとサムネイル別途用意出来るが、SNS等のアカウントではこれを弄る事はほぼ出来ない。
しかし、SNSの様な外部サイトであっても唯一弄る事が出来るのが、アカウントそのものを示すサムネイルだ。
本項で触れるサムネとは、このアカウントの顔となるサムネを意味する。

ネットでは、各レイヤーの情報は狭いスペースに収納され、これを他レイヤーと共に一斉表示する。
狭いスペースしか割り当てられていない為、テキスト量も少なく制限され、基本的には、アカウント名(コスプレ系SNSではコスネーム)とサムネのみが表示される傾向が高い。
検索対象が明白である場合や表示されているテキストが閲覧者の興味対象であれば、クリックを誘発し、自アカウント迄来てくれるだろうが、この場合、閲覧者が最初から興味があるもの、或いは、知っているものに限定されてしまう。
つまり、閲覧者が知り得ない情報においてはクリックされる事は稀となり、自アカウントに来る可能性は極端に低くなり、自分の写真に迄辿り着く数は雀の涙となる。

閲覧者が知り得ない情報であっても、唯一、クリックを誘導させる可能性があるのが、このサムネイル画像である。
サムネとは、単なる小さな表示の画像ではない。
クリック先にどんなものがあるのかを閲覧者に期待させるアイキャッチであり、そのアカウントの概要であり、情報の集大成だ。
謂わば、ROMにおけるジャケットとほぼ同義であり、それ程重要だ。実際、サムネ次第でクリック率は大きく異なる。

では、実際のサムネとは何なのか?
見た目的には100pixel前後の小さな画像であり、小さいものでは45pixel四方のものすらある。Twitterでは最小24pixel四方迄小さくなる。
サムネは小さい為、余程注意深く見なければ、それが何のか判断が付き辛く、そもそも、注視する様なものではなく、サラッと流し見る画像だ。
その流し見られるサムネ画像を分かり易く表示させておく事で、閲覧者の目が一瞬止まり、クリックされる。
そのコツが、サムネ選びと作り方だ。

本項に掲載しているサムネ作成例の画像を見て欲しい。
@〜Cのサムネ候補を上げているが、選択すべき候補はBかCのいずれか一方だ。
@は、自動サムネ生成なので、比率が保持されたまま縮小されるので極端に小さくなってしまう。
Aは、比率を正方形に調整してはいるものの、元写真の保有する情報データを出来る限り画面に収め様としている為、サムネサイズとなった時、情報が多過ぎてしまい印象が弱くなってしまう。
BとCは、顔周辺を切り取り、所謂、顔のドアップ状態にして作成したサムネであり、前者は元写真そのまま、後者は彩度と明度を調整した(但し、その差をハッキリさせる為、後者の調整は極端にしている。通常、ここ迄強く調整する必要はない)。
BとCのいずれでもいい理由は、閲覧者の閲覧環境によって見え方が異なる為だ。
基本的にモニタのデフォルトでの色調整は強め(濃いめ)が多いので、前者の元写真そのままの淡い状態のサムネで問題ないが(元写真が逆光である為、コントラストを落としてある)、サムネがどのくらいのサイズ迄小さく表示されるかは、利用しているサービスによって異なる為、後者の様に比較的強めの色合いでも問題なく、寧ろ、サムネサイズが小さくなればなる程、効果的となる。

これには理由がある。
サムネは表示サイズが小さい為、荒くなる(Pixel数が減るのであるから当然だ)。
荒くなった画像に、様々な情報(像としての情報や色としての情報)が混在していると、像として捉える際、焦点が散ってしまい、印象として残らない。
その為、小さく荒くなるサムネでは、情報を少なくしてやるのが適切であり、本例にある元写真の場合、顔周辺に寄れば、カラー情報は減り、顔写真であると認識し易くなるのだ。

人間の目は、光学的なメカニズムである為、光を色彩情報として認知する。そして、色彩変化により像として認識する。
これがそれなりに大きい写真(高解像度)の場合、しっかりと認識出来るが、モニタを通して見る場合、解像度の限界もある為、小さく荒い画像の場合、色彩情報を少なくし、像としてはっきり見せなければ、全く印象に残らなくなってしまう。

犬を見た時、犬と分かるのは、その閲覧者が犬と云う動物を知っているから像として認識し、それが犬であると判断出来る。犬を知らければ、何等かの四足歩行動物であろうと推測しか出来ない。
キャラコスの場合、元キャラが分からない閲覧者にとって、それが何のコスプレか不明な事もあり、従って、元キャラならざる情報による像(本例の場合、色味が派手な顔写真≒コスプレ写真)として認識させれば、これに期待し、クリックを誘発させる可能性が高まる、となる。
より推測し易い情報を提示し、期待させる事が出来れば、サムネとしての役割は概ね成功となる。

本項では一例しか触れていないが、サムネイル画像とは、クリックの誘発や誘導をもたらす大事なアイキャッチであり、ファンを獲得する為の第一歩である。
これを怠るレイヤーにアクセス数は期待出来ず、閲覧者そのものの数が限られてしまう為、ファン数や支持者、その認知度が高まる筈がない。
小さな画像如きと侮らない事をお奨めする。

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コスプレ撮影による写真選び――ロケーション編

満天の星空 エメラルドグリーンの海 幻想的な静寂に佇む森 聖地巡礼…
主役はいずれか
際限無く再現を求める愚

コスプレ魔導書『コスプロノミコン』第2章第1節7「汝、旅行したいだけろ!」より抜粋――

キャラコスには当然、元キャラがおり、原作が存在している。
クオリティを追求し、衣装や小物を極めると、次に極めたくなるのが、シチュエーションとロケーション。
原作の一部を抜き取り、大規模なロケを敢行し、原作再現を行いたくなる…意識の高いレイヤーが陥りがちなミス。

原作に忠実な再現をロケで実施する場合、お金と時間、許可が必要となる。
それなりの労力が伴う為、確かにいい作品、或いは、いい写真と云うものが撮れる訳だが、それが注目されるアイキャッチとなるか、人気の火付け役となるか、ファンがつくかと云えば、ほぼ皆無である。
勿論、褒めてくれる者もいる。その殆どは、同じ原作を愛するレイヤーくらいだろう。

極端な話、技術とソフトを持っていれば、ブルーバック撮影で原作再現は全て済んでしまう。
つまり、写真としての再現度を望むのが本質的な目的あるとすれば、労力をかけて迄ロケをする意味は殆どなく、今であればスタジオ撮影と合成技術で如何様にでもなってしまう。
従って、ロケを敢行するのは、自発的なイベントであり、自分が楽しむ点においては間違いはなく、何等問題にならないが、写真撮影は記念写真となり、それ以上でもそれ以下でもない。

コスプレ写真の主役は、何があろうとも被写体であるコスプレイヤー自身であり、それは人物写真の域を出ない。
既に十分な注目度を得ているレイヤーの写真であれば、その自己満足写真を見てもファンは喜ぶだろうが、初見の者やそもそも原作を知らない閲覧者であれば、それこそ旅先での記念写真程度の認識か持たないのである。
人物写真とは常に、被写体となる人物そのものに焦点が当てられている必要があり、ロケは味付けでしかない。
従って、コスプレ撮影におけるロケ撮影は、レイヤーと云う被写体がよく撮れていなければ成立せず、万が一、ロケーションに負けてしまい、被写体であるレイヤーが霞んでしまう事があれば、それは最早、公開するには至らないボツ写真、となる。

ロケをして原作再現をする前に、今一度、よく考えて貰いたい。
原作の中で、ロケが必要な、即ち、背景や情景を含む描写は、果たして、その作品において、或いは、コス対象となるキャラクターにおいて、重要なシーンだろうか?
実際、自身で漫画を描く者であれば、仮に素人であっても気付く筈だが、風景や情景は、アクセントや状況説明、間(ま)の類であり、ストーリーとはキャラクターによる選択肢の結果、紡がれる経過だ。
従って、キャラコスによるコスプレ写真でロケ撮影を行った場合、それはROM作品や写真群の中にあって、同じ様なアクセントやテンポとしてのみ成立、若しくは、箸休めであり、レイヤー自身を指すメイン写真たり得ない事を自覚しておく事。
これを理解した上でロケをするのであれば問題はない。
但し、ロケをする労力があれば、他のスキルやクオリティ、すべき事に割く事をお奨めするが、旅と云うものは確かに魅力的である。

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コスプレはファッションの一分野

コスプレは衣装である以上 ファッション
ファッションである以上 着こなす必要がある
着こなすのが 魅せるのが コスプレへの近道

コスプレ魔導書『コスプロノミコン』第2章第2節1「着るか、着られるか」より抜粋――

スカート丈による足を長く見せる為の参考例 まずは右図を見て貰おう。
@〜Bの中で、どれが一番足が長く見えるだろうか?
どれが一番スタイルがよく見えるだろうか?

恐らく、誰もがBを選ぶ筈だ。
もし、B以外を選んだり、全て同じに見えると答えた者は、残念ながらファッションセンスは絶望的だ。
本項を理解するには至らない為、読み飛ばして頂いて結構。

Bと答えられた者だけに解説する。
人物の背景にあるグリッドを確認すれば分かる通り、全く同じ人物である為、本来スタイルは均一、同一だ。
しかし、一番足が長く見え、スタイル良く感じるのはBだ。
これが、人間特有の視覚における錯覚だ。

@〜B、その全てが膝上丈であり、言葉にするのであれば、どれもミニスカートと言う語で表現される。
しかし、同じミニスカートでも当然、丈の長さは異なり、その丈の長さのどれをチョイスするかによって全く印象が異なるのだ。

人間の目は像を認識する時、形状より先に色彩で判断する。
これは光学的な判断であり、光学的な色彩や濃淡が形状を意識させる。
勿論、これは錯覚であり、人間の目とそれを判断する脳は、そのようにして作られている。

この錯覚を利用するのが、謂わば、着こなしだ。
コスプレと言うものが、コスプレ衣装を伴う事が前提である以上、ファッションの領分。
従って、着こなす上で、どれを選択し、どのように着飾るかを切り離す事ができない。
足が太いから隠す、下着が見えてしまうから隠す、恥ずかしいから隠すのではなく、どうすればより美しく見せる事が出来るかを注視するのがファッションだ。

イベント等、不特定の第三者がおり、許可した覚えのない撮影をされ、ローアングルで撮られる危険性がある為、確かにこのような場では適切とは云えないかもしれない。
しかし、仮に撮影のみとし、記念に残す上、或いは、誰かに少しでも良く見られたいとした時、最も効果的に見せる着こなしが存在する。
コスプレの場合、デザインや色彩は原作に依存する。
であればこそ、この僅かな着こなしの差で、大きな差を生むのである。
普段からファッションに造詣があれば、この当たりは必然的に分かるだろう。
日常的なファッションの善し悪しを理解して行けば、コスプレも必然的にいいものになる。
日々のファッションにも注力してみよう。もしかすると、コスプレに応用出来るかもしれない。

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クオリティに勝るスピード

Goサインは誰が出し 誰に出すのか?
自分が納得するまで?
違う!自分が納得するのではなく 人を納得させるのが玄人

コスプレ魔導書『コスプロノミコン』第3章第1節3「最速で!最短で!真っ直ぐに!一直線に!」より抜粋――

支度が遅い者がいる。
支度が遅くなれば、楽しむ時間は短くなる。無論、自分が楽しむだけなら問題ない。
しかし、人を待たせているとしたら、もし、それが仕事だとしたら、支度の遅さは自身の評価を下げるだけ。

モデルとして呼ばれ、幾つかのコスプレ姿を披露しなければならない時、早着替えが重要となる。
撮影者や関係者を待たせれば待たせる程、次にモデルとして呼ばれる可能性は低くなる。
仰天する程のクオリティを誇っていたとしても、待たせてしまえば色褪せる。
どんなに高級な魚でも、日にちが経ってしまえば腐ってしまう。
そう、時間は待ってはくれないのだ。

早着替えにはコツがある。
支度の速さは段取りの良さ。段取りがいい場合、仕事も捗る。
特別指示のなされていない撮影会でのコスプレでは、元キャラ選びが重要となる。
メインとなる基礎メイク、使い回せるウィッグやカラコン、衣装や小物の選択に至る迄、予めコスプレを行ってゆくイメージを持っていなければならない。

但し、この時、気をつけなければならない事がある。
段取りに注視し過ぎてしまい、着替えをしたにも関わらず、全く印象が変わらないコスプレでは、そもそも着替えた意味がない。
つまり、衣装、ウィッグ、カラコン、メイク等、色彩のパターンがガラッと変わるものの、一部使い回す事が出来るようなキャラ選びが鍵となる。
早着替えをマスターしたレイヤーは、いよいよ記録物と云う媒体から飛び立ち、三次元で活躍出来る素養を持つ。
これが、二次元でしか活躍出来ない元キャラを踏襲しただけのキャラコス再現をレイヤー自身が超えた瞬間である。

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主戦場はSNSに非ず

挨拶がしたいのか かまって欲しいのか
大局の勝敗は 局地戦での勝利を積み重ねても成らず
利用するのか利用されているのか 推し量れ

コスプレ魔導書『コスプロノミコン』第4章第3節1「最近、運営のようすがちょっとおかしいんだが。」より抜粋――

Twitterを含む数多のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS:Social Networking Service)が存在する。
SNSはフリーメールアドレスでアカウントを取得する事ができ、予め用意されたフォーマットに指示通り入力すれば、簡単に自分専用のページを作成でき、各種コンテンツを利用できる。
特定ジャンルに特化したSNSであれば、同一の趣味を持つ者を簡単に発見する事ができ、交流が可能。
コスプレに特化したSNSも数多く存在し、写真の公開や管理、日記、スケジュール他、それなりに便利だ。

これらSNSは「アーンドメディア(Earned Media)」と呼ばれる。
コミュニケーションによる双方向性を視覚的に捉える(掲示板に類似)事が簡単に出来るので、個々のアカウントを知る事に適す…とされている。
実際、SNSを利用してみると、積極的・能動的に動けば、それなりのリアクションを期待する事ができ、楽しく便利…な気がする。
SNSを使いこなし、これを極めれば、仲間(友達)は増える…

幻想――SNSを利用する事で得られるものは少なからずはあるものの、割いた労力程の返りはなく、僅かな数での高確率な成約しかもたらさないのが現実、だ。
本来、コミュニケーションのみを実施するのであれば、自サイトや自ブログで十分。自サイトや自ブログは「オウンドメディア(Owned Media)」と呼ばれる。
では、何故、SNSを利用するのか?
それは、コミュニケーションの本質を求めているのではなく、コミュニケーションの準備が整っている状況にある者が、ある程度の数存在しており、リアクションを比較的早く確認する事ができ、少数のフレンドリーな者を見付けるに理想的な環境故。
即ち、SNSとは、近似な嗜好を持つ者を探し、それらの中から幾ばくかの者との接点を作るのに向いており、最大の特徴、つまり、アカウント運用の原点は、求め得る指向性に近しい参加者がどれ程いるか、これに限る。
現に、ユーザー数の少ない、或いは、衰退期に入ったSNSに、人は見向きもしない。これが現実。

レイヤーにとって、そもそもレイヤーならずとも主舞台となるのはオウンドメディア、要は、自身の運営するホームページやブログだ。
アクセス解析を紐解けばリアルな数字を実感出来ると思うが、SNSで運用するアカウントからの訪問者と検索エンジン他別途リンクからの来訪者では、明らかに後者の方が多い。
SNSからの訪問者は、アクションを取る可能性が高いユーザーであり、数そのものは極端に少ないのだ。
だからこそ、商取引や販売を行っている業者はSNSを使っている訳であり、もし、ROM販売をしているレイヤーであれば、少数ではあるものの、確かな販売目的用のPRに繋がる事になる。
しかし、成約率の高い者を少数しか誘導出来ない為、認知度や知名度向上には適当とは云えない。

SNSは純度の高い少数の者を呼び寄せる程度で活用にするに留め、最重要課題はオウンドメディアとする。
特定のSNSでの1アカウントの写真数がオウンドメディアに掲載している写真数より少ないなんて事がないように。

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ファンで在り続けるのか?ファンを求めるのか?

見続け惹かれ 求めて見る
見せて楽しみ 求められて見せる
追従するコスプレから 飛躍するコスプレイヤーへ

コスプレ魔導書『コスプロノミコン』第6章第4節3「I cosplay to win!」より抜粋――

原作のファンで、その登場人物を好きになり、扮装してみる、それがコスプレの、キャラコスの第一歩。
キャラコスをし、コスプレイヤーとして進むと、少なからずの反応が気になる。
普段、髪を少し切っただけでも、第三者の反応は楽しみ。それが人の常。
お気に入りの真新しい衣装を纏い、見た人の反応が気になる。当たり前。
反応が無い事程、つまらないものはない。出来れば、貶されるより褒めて貰った方が嬉しい、当然。
この実に、素朴で当たり前の感情を覆い隠す必要はなく、寧ろ、それを受け止め肯定し、前向きに実感すべく邁進すればいい。
それがレイヤーとしてのスキルアップに繋がるのだ。

では、前述の感情を肯定した場合、レイヤー自身のモチベーションはどこにあるのだろうか?
当初、コスプレへの第一歩、或いは、今後の予定コスは、恐らく、好きな原作と一押しのキャラクターであろう。
これは至って普通。特別、問題がない。
しかし、この場合、自身が能動的に欲する希望であり、該当する作品とそのキャラを知る者以外、そのコスプレへの反響は期待出来ない。
つまり、これは自身が好きな作品へのファン心理が優先している訳であり、自己への評価は二の次だ。
自己への評価が、好きな作品愛に劣るのであれば、確かに作品や元キャラには献身的ではあるものの、自己への反応や批評は作品愛、自己愛に劣る訳であり、当然の事ながら上達はしない。要は、聞く耳も持ち合わせていない状態だ。
箸を使うのが下手な者は、それが間違っていると云う第三者の忠告より、口に食物を運べればいいと云う事だけを優先してるが為、直らないし、直らない。
コスプレにも同じ事が云え、作品愛、キャラ愛に満ち溢れていれば、多少おかしくても、それをコスプレ出来ていると云う満足感が支配している為、他人の言葉を聞かないし、受け付けない。
コスプレ歴が長いにも関わらず、おかしなコスプレ姿をしているレイヤーが、正にこれである。
無論、反響等期待していなければ全く問題なく、そもそも話題にする必要性もないが、下手にコスプレ歴が長くなると、欲張って反響迄欲する者もいる。
偏に、ナンセンス。

自分にとって都合の良い反応を期待し、それなりの反響を得るには、周囲をよく観察しなければならない。
些細な機微への反応にも敏感に、それを否定するのではなく取り入れ、しっかりと解釈し、より良いものへと昇華させる。
相対評価に耳を傾ければ、指標が見える。
その指標が分からないままで、作品愛と云う名の自己愛で絶対評価をしている限り、成長はない。やがて、経年や環境変化によってコスプレそのものに興味を失う。
コスプレとは自己表現であり、表現とは内面的な感覚を外面的な形象を伴い、客観化する事。
形象として客観化すると云う事は、第三者がこれを捉え、判断する事が出来る。つまり、表現とは第三者の客観性の対象となる存在であり、自己表現であるコスプレもその対象となる。
であれば、自己表現の向上には客観性が必要不可欠であり、これを受け入れなければ成長は見られない。
作品愛と云う自己愛と自己表現をなす自己愛との葛藤であり、作品と云うものが第三者によって発せられた創作表現である事をそもそも理解しているのであれば、レイヤーはどちらの自己愛を取れば自分自身に有益であるか否か、分かる筈だ。
そう、自己表現、である。

作品愛やキャラ愛と云う第三者の創作表現に自身が満たされるであろう自己愛を注ぐのであれば、そこから発生した自己表現たるコスプレは自己愛の投影であり、より自身に近しいのである。
とすれば、自己表現を極めれば等しく自己愛は満たされる事となる。
そして、上述の通り、表現とは、内面性の具現化による第三者への視覚化であるから、これを受け止め磨く事が上達への近道であり、結果的に自身も満足行くのである。
それには、好意的な反応であったり、より大きな反響があればよく、これは誰も傷つけず、実に前向きな発想なのだ。

1つ例を挙げておく。
レイヤー某がコスプレ姿を披露し、それを視聴した者は、その元キャラや原作を知らなかった。
レイヤー某に興味ある者は、そのレイヤーが扮した元キャラが何であるかを調べ、その原作と出会い、その作品を見る事になった。
結果、原作を知り、その魅力を語っていたレイヤー某の言葉により共感を抱き、今迄以上にレイヤー某のファンとなった。

レイヤー自身は、自分が扮するコスプレの元キャラや原作を知っている(場合が多い)。
レイヤー自身が知っている訳で、且つ、その原作が好きであれば、それを敬愛して止まないのだが、コスプレを見ている者がそれを知っているとは限らない。
知らない者が、しかし、気になっているレイヤーのコスプレを見て、原作に触れた場合、少なからず、元々知らなかった者にとっては、興味対象と云う点から鑑みた場合、明らかに原作よりもレイヤーの方が上位に位置し、優先度が高いのである。
この状態が、レイヤーのファンである。
レイヤー自身の魅力によって、別の対象物に注目させる事が出来る、それが自己表現の完成形に近しい状態であり、これは正に芸能人やタレントに近しい存在となる。
芸能人やタレントは、スポンサーの商品やサービスの広告塔となる事がある。それはスポンサーの商品やサービスを第三者に広める目的だ。
つまり、原作や元キャラを知らない第三者を、原作や元キャラに誘うだけの力があれば、そのレイヤーは上質なカリスマ性を有している1つの指標となり、自己表現としてのコスプレが上等なのである。

幾らコスプレ歴を積んでも、原作や元キャラを予め認知した者にしか反応して貰えないレイヤーは、所詮、そこ迄と云う訳だ。
それらは、原作を愛でる会の一員であり、評価はレイヤーではなく、原作に注がれる。
コスプレイヤーとしてコスプレと云う自己表現を高みに進めるつもりであれば、原作も元キャラも知らない、仲間もいない第三者を惹き付けるのが得策。
そして、第三者を惹き付けるだけの力を得る事が出来たのであれば、再度、振り返る事が出来る。
自身の好きな事が間違っていなかった、と。それは、コスプレを始めた切っ掛けとなる原作愛の集大成であり、それこそ、誇るべき価値となるであろう。
本物の原作愛とは、自己愛による回り道をして尚、壊れるものではなく、支持者を得て、完遂するのだ。
これが出来ない、或いは、怠る者は、それが自慰であったと後で知る事になる。

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本書の解読にはまだまだ時間が足りない

此処迄読み進めてくれて有難う、友よ。
コスプロノミコンの写しはまだまだ膨大に手元に残っている。
翻訳作業は断続的に行ってゆくが、いつになったら新たな翻訳を公開出来るかについては見当も付かない。

翻訳記事には言葉が足りていない箇所も多々ある。
本当は、一人一人の質問に答えたいのだが、時間が足りないんだ。

そう、今、正にカップ焼きそばの湯切りに行かなければならないんだ!
この時間を損なうと、とても喰えたもんじゃないんだ、これは。
気分が台無しになる。
許してくれ、友よ。
時間は待ってはくれないんだ。

さよなら、友よ。
また、見に来てくれる事を楽しみしている。

そうそう、この巫山戯たページ以外も、めっちゃ読んでくれよなッ!
ついでに、応募か登録してくれよなッ!
仕事くれると嬉しいかも?
アディオス!

To be continued...

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